Marstonの勉強発信ブログ

日々の読書や勉強を通し、得た知識を自分なりに解釈して世界に発信する。そんなコンセプトのもとで皆さんに楽しんでいただければなと思います。

メテオ・ブラック・ドラゴンが導いてくれた、私の人生!

今回は私が幼い頃から今日までずっと親しんできた遊戯王についての話をしたいと思います。

あれは小学校三年生の頃でした。

ある日の夏祭り、私は親と一緒にお祭りを楽しんでいたところ、射的の屋台を見つけました。たくさんの景品が並んでいる中で、私の気を引き留めたのが遊戯王カードでした。遊戯王というものを前々から知ってはいたのですが、何枚か束になっている遊戯王カードの実物を見つけて、それを欲す気持ちが一気に上がり始めたのでした。

 

当然、私はそれが欲しくて射的に挑戦しました。店員さんから渡された鉄砲を、たどたどしいながらも構え、景品のカードに的を定める…。そして、発泡!

何発か上手くヒットさせて倒すことができたものの、無効になりました。

店員さん曰く、景品が置かれている台から床にちゃんと落とさないとダメだとのこと。

結局、カードの束はゲットならず…。

しかし、店員さんは残念賞として、ランダムでカードを数枚選ばせてくれました。

 

ババ抜きでカードを抜き取るが如く、店員さんがこちらに裏向きの手札を向け、

私はピンときたカードを選びました。

 

そうして引き当てたカードが、

メテオブラックドラゴンのカードでした。

 

3500というブルーアイズをも凌駕する圧倒的な攻撃力と、

燃えたぎるような光り方と、大迫力のイラスト。

そんなメテオブラックドラゴンというカードは、私の心を一気に引き入れてくれました。

遊戯王には、こんなにもかっこいいモンスターがいるのか!

本格的にカードを集めるキッカケをくれました。

 

自分なりにデッキを組んで、弟と対戦したり、非公式の大会に何回か出たこともありましたが、私が一番力を入れたのは、カードの収集ですね。

 

あの時、私が景品のカードの束を落とせていたら、メテオブラックドラゴンは手に入らなかったかもしれません。

 

遊戯王にはそれ以外にも、かっこいいモンスターのカードが数多く存在します。

しかし、メテオブラックドラゴンほど、私を惹きつけるカードには出会うことができず、今日に至るまでカードを熱中して集めることもなかったでしょう。

 

他人から見れば、他愛のない幼き日の思い出話に聞こえるかもしれませんが、私にとってはこれも、一つのターニングポイントだったように思います。

 

人生の2/3以上を遊戯王と関わってきた、私のエピソードでした!

 

 

 

趣味の小説

またまたブログの更新が滞ってしまい申し訳ございません。

私は非常に気まぐれな人間でもあり、ブログを更新するタイミングも不規則なのですが、さすがに間を置き過ぎましたね。

今回は、そうなってしまった理由について簡単に説明しようと思います。

 

私は趣味で、自作の小説も書いております。

将来この小説をみんなに読んでもらい、いつかアニメ化も果たしたい。

…なんてたいそうな夢を抱いているわけではありませんが、

 

他の人には真似できず、且つクリエイティブな趣味をもち、自分にしかつくれない世界をつくれたら最高ではありませんか!

 

空想の世界では、想像力さえあれば何でも出来るし、何をしても許される。

常に自由を追い求める私にとっては、これ以上無いくらい最高の趣味だと思うのです。

 

しかし、そんな素晴らしい趣味であっても、それに没頭できる環境が身近に確立されていませんでした。

例えば、外出先や電車内でネタを思いついた場合、iPhoneのメモアプリを利用して文字を打つことはできますが、それも長文になると打ち続けるのがどうしても億劫になってしまうし、何より楽しく作業できない。アイデアを思いついた瞬間だけでなく、文字打ちしている瞬間も含めて、楽しいと思えないとやはり長続きはしないのです。

 

私はスマホのキーボードよりも、パソコンの物理キーボードを使う方が、圧倒的にストレスが少ないということに気づきました。

家にはもともとデスクトップのパソコンも、ゲーミング用のノートパソコンも置いてありましたが(どちらもWindows)、デスクトップのパソコンに関しては、いかんせん起動も応答も遅く、せっかく文章を打ちたい欲求や気力があったとしても、不十分なスペックの前に、貴重なモチベーションは無に帰すのでした。

 

ノートパソコンは重く、とても持ち運ぶことを前提に作られていない。さらに「Word」のような文章ソフトもインストールしなければならない。

昔、2〜3万の格安ノートパソコンを購入したこともありましたが、安物買いの銭失い。

しかも、電源ボタンを2、3回押してもなかなか画面が光らない上、画面上でカーソルが現れて操作できるまでにも時間はかかるし、1年も経たずにブルースクリーンが発生し、オジャンに…。

 

パソコンを持ち運べないなら、ネットカフェのパソコンを利用しようとも考えましたが、「Word」や「Excel」が常備されていたパソコンを私は見たことがない。

ネットカフェではよく、「出張先のビジネスマンの仕事をサポートする」と謳っているにも関わらず、基本的な文書ソフトの1つもないとはこれ如何に。

 

また手頃なWindowsパソコンを買おうとも思いましたが、また過去のように同じ過ちを犯すのではないかと危惧したため、少し考えました。

 

そうだ、Macなんてどうだろうか?

しかし、Macをはじめとするアップル製品はどれも高価です。

「ああ、なんか…このパソコンも寿命っぽいし、そろそろ新しいの買うか」と言いながら、ポンっと金を出せるようなレベルじゃない。

 

だがここは逆の発想をしよう。

 

今までは、安物買いの銭失いで失敗したのですから、ここは思い切って大きな買い物をしてみても良いんじゃないかと、自分に言い聞かせました。

 

アップル製品としては、私は他にiPad Proの11インチモデル(2018)と12.9インチモデル(2021)も所持済みです。アップルウォッチも運動管理に役立っていますし、長時間着用していてもストレスはほとんどありません。

iPadではノートアプリのGoodnote5を駆使し、過去には第三種電気主任技術者や1級土木施工管理技士といった資格試験の突破にも貢献してきました。

思い返せば、どれもかなり良い応答速度だったし、アップル製品でストレスに感じたことはほぼなかったと思います。さすがアップル!全ての部品を自社で取り扱っているだけのことはありますね。

 

 

 

 

スタバでMacを開いてドヤるという、細やかな夢もあったではないか。

世界中を旅しながら、場所を選ばずノーパソ一台で仕事をしたいという夢もある。

パソコンのOSでは、Windows以外のものに触れた経験もなかったし、

MacのOSを新たに経験するのも良いじゃないか。

 

というわけで、アップル製品に対する私の期待値が高まりつつあり、

だんだん、これを買わない理由がなくなっていました。

 

いつかはこれが必要なんだ。じゃあ、もう買おうぜ!と、自問自答の末、私はアマゾンの「注文確定」のボタンをクリック!

 

 

20万という支払った結果、我が家には翌日、このMacBook Airが届けられ、

同時に趣味の小説を書き続けるモチベーションが一気に付与されるのでした。

 

手軽にパソコンを起動して、手軽にキーボードを打てる環境があれば、大したネタが天から降りてこなかったとしても何かしらの文章は書けます。この機会を如何に増やせるかが重要だと思います。以前、下記の記事でも書きましたが、そのうちキャラクターやストーリーが一人歩きする瞬間というものがありますからね!

marston.hatenablog.com

 

 

ここまで読んで頂いた読者の皆さんの中には、こう思われた方もいらっしゃると思います。

「いやいやいや。だったらブログも書けるだろ!」と。

 

ごもっともです。

もちろんブログを続ける気もあります。

ですが私の場合、趣味がたくさんあってもそれらを均等に並行して行えるほど、器用な人間ではないのです。今最も夢中になっている趣味があれば、自分のリソースはそこにほぼ全振りしてしまうんです。

 

ですので、もし私のブログの更新頻度が多ければ、他に夢中になっている物がなく、

逆に頻度が落ちれば、別の趣味に没頭しているんだなという、一つの指標にもなるでしょう(笑)

 

 

今回はそんな、自作の小説を書き進めておりました故、ブログの更新をサボっていましたというご報告でした。

刻読と思考とバックアップ

私はこれまでに読書に関して、熟読、乱読、速読といろいろな読書方法をしてきましたが、最近は刻読という方法を意識的に行っています。

その名の通りこれは、読んだ本のページに付箋を貼ったり重要個所にマーカーを引いてたりと、自分が読んだ跡を残しておく読書方法です。

 

なぜ私がこのような方法を行うかというと、

それはなるべく早めに大量の本を消化しておきたいからです。

 

興味を示す知識のジャンルが多岐に渡った故、様々な本に手を出し、片っ端から購入していったものですから、こんな有様(笑)

近いうちに引っ越しもしなければならない為、物の運搬量を少しでも減らしておきたいのです。なかには大して読み込んでいない本もあり、ろくに知識を吸収せずにそれらを手放すのも勿体ない。 

 

まず本を1字1字読むのではなく、多少飛ばしてもいいから肩の力を抜きながら気楽に視線を滑らせます。

 

そうしていくと途中で「お!これは」とか「ほう、なるほどな」と思える文章表現や言い回しに出会えるはずなので、そういったピンときた部分のページに付箋を片っ端から貼り付けていきます。

 

それが題意に対して重要なのかとか関係性があるのかとか、難しく考える必要もありません。

 

ここでは著者が本当に伝えたいことは何なのかと考えず、自分がどの文章に魅かれ、それに対してどう考えたのかを後から思い出せるかどうかに力を入れる感じですね。

 

著者の考えを汲み取るのも大事ですが、自分自身がどう考えたかを何らかの形にしておく方が、確実に血肉になります。

 

そうして自身の思考の履歴をひとつひとつ残していくことで、考えの幅や思考パターンが広がるのではないでしょうか。

 

 

 

 

世の中で必要とされない人間などいない、と思いたい。

今回は、中学時代になにかの授業(?)の中で見た、ビデオについて語っていこうと思います。

 

とある高校を退学になった一人の青年のお話です。

 

その高校生は家庭でも高校でも他人とうまく強調できない情緒不安定な青年でした。

高校でも、クラスメイトや教師に対する暴力行為が絶えず。

学外でも警察沙汰になったこともあり、ついに学校側も彼を退学処分に。

 

校内でも校外でも敵意を向けられ、居場所を失い、誰も彼に近づこうとしませんでした。唯一青年のことを心配してくれたのは母親でした。

学生生活が終わった後も心は荒んだままで、その抑えようのない怒りの矛先はやがて両親へ向き始めました。

 

そんなある日、彼はボランティア活動をしてみないかという誘いを受けました。

高校を退学になって何ヶ月か経ち、あらかた落ち着きを取り戻した彼は、他にやることもないため、乗り気でないながらも参加することにしました。

 

 

ボランティア活動の当日、青年は老人ホームを訪れました。

到着すると、施設の担当のお姉さんがやってきて、

「君が○○(青年の名)君だね。今日はよろしく!」と、

明るいトーンで青年に言いました。

 

青年が今回行う仕事というのは、車椅子に乗った一人のお爺さんのお世話をして欲しいというもの。

お世話といってもそこまで大した業務ではなく、車椅子を引いて一緒に施設の中庭を散歩して欲しいというものでした。

 

青年と老人。お互いにダンマリしたまま、二人は中庭を散歩を始めました。

散歩を始めて10分ほど経ち、車椅子に乗った老人が徐に口を開きました。

 

「お前さん、学校退学になったんだって?」

「…ええ、まぁ。何もかもが上手くいかず、嫌になってしまって…」

 

老人からの問いに対して、落ち着いた口調で答える青年。

自身の考えがまとまらないのか、それは煮え切らず濁りを含んだ回答でした。

 

「そうか。…まぁ、色々あるさ!」

老人は、青年の行いについて口出しするでもなく、指摘するでもなく、ただただそう答えるのでした。

 

そうして老人との散歩を終えた後、施設の係員のお姉さんがやってきて、「お疲れ様!あのおじいさんも凄く喜んでいたよ、またいつでも遊びに来てよ。今日は本当にありがとうね!」と、まんべんの笑顔で青年に告げるのでした。

 

お姉さんがその場を去り、青年はしばらくキョトンとしたまま立ち止まっていました。

おじいさんの車いすを引き、大した会話も交わさず、だた中庭を散歩しただけ。

それでもあんなに感謝された。

今までは粗暴な態度で、人に暴力を振るい迷惑をかけ、皆から避けられていた。

そんな自分が人生で初めて感謝された瞬間だったのです。

 

この人生においてどんなに軽蔑され、どんなに煙たがられ、どんなにカッコ悪かろうとも、勇気を持って何かを始めれば、自分が誰かの役に立って感謝されるのかなと思ったのです。

 

ここ最近は私自身も、会社において多くの人間から嫌煙されてきて、どんなに努力しても認められず、生きる気力が消沈しかけていたところです。

 

そんな心境のなか、中学時代のこのエピソードの思い出し、

「こんな自分でも、中学時代に見たビデオの青年のように、誰かを喜ばせることが出来るのかな」と思ったのでした。

 

 

 

 

ダークサイドに堕ちた俺氏 1年ぶりのスポーツジムへ

運動は大事ですよね。

これは間違いない。

いろんな本を読んでも、運動は身体に悪いと謳っている本はありませんし。

 

というわけで今回は、約1年ぶりにスポーツジムの「エニータイムフィットネス」に再入会して、運動を始めた話をさせて下さい。今回はちょっと長くなります。

 

      トレーニングマシンで筋トレをする男性のイラスト

 

私は過去にもスポーツジムに1年近く通っていたことがありました。

その時がちょうどコロナが流行り出した2020年で、コロナに負けない丈夫な身体をつくり上げたいとか、少しでも身体を鍛えて仕事を有利に進めたいとか、いろいろ理由はありました。

 

しかし、私が運動を始めようと思った一番の理由は、元気を出す為です。

 

言うまでもなく私は大人しい性格で、周りと比べてもその元気の無さは顕著なものでした。

そんな自分の短所については昔から重々承知ではありましたし、大きな声で話すように心がけてもいました。

大きな声で話すというのは、一般的な人からすれば大して難しいことではないのでしょう。しかし私にとっては、資格の勉強以上に苦痛のある試練といっても過言ではありません。

この苦しみを他人に話したり相談してみても、なかなか理解してもらえないんですよね…。

 

そして、会社の常務からもそのことを指摘されたことがあり、本格的に性格を改善しなくてはと思ったのです。

しかし、改善するといっても、今まで通りの方法で大きな声を心がけようと思っても、恐らく効果は見込める気がしません。

学生のころから、同じような指摘は何度も受けてきたものの、ずっと解決できていないのだから。

 

そこで、思いついた新しい方法というのが、運動です。

 

運動。昔っから大嫌いなジャンルでした。

 

小学生の頃、母親に地元の少年野球団に無理やり入団させられ、野球のルールもろくに知らないまま、飛んできたボールをひたすら拾い、誰に投げ返せばいいかも分からず、監督に怒鳴られてばかり。控えめに言って、クソ喰らえでした。

 

中学生のころは卓球部に所属していましたが、チームメイトと上手くやっていけたわけもなく、集団で殴られ蹴られの毎日。やがて新たに加わった後輩たちからも嘲笑われ、そこに青春の1ページなんぞありません。

 

高校時代は帰宅部…。このころになると、活発な青春を送ろうなんて気力も沸くこともなく、3年間ずっと消沈したままで何も無く、気付いたら高校を卒業。

 

そんな感じで学生時代は、運動とは縁も馴染みもない暗黒時代を送ってまいりました。

 

それ故、運動やスポーツに対するトラウマは深く、運動に好意的でない。

それでも世間では、運動は身体にもメンタルにも良いと言われるくらいなのだから、いつまでも避けるわけにはいきません。

 

運動を習慣化し、己の内面を変えようと決めたのでした。

 

始めのころは、ランニングマシンで5分走っただけですぐにへばるし、10キロの重りを持ち上げるだけで早くも筋肉が悲鳴を上げ、今まで運動をしてこなかった自分を嘆くばかりでした。

 

しかし、継続は力なりとはよく言ったものです。

 

ある程度通い続けていると、それなりに出来ることもだんだんと増え、あれだけ毛嫌いしていた運動を楽しいものと思えるようになったのです。

 

やはり、新しいことに挑戦するのは大切なことなのですね!

 

会社が終わって暗くなってきた時間帯に、1人黙々と運動に励むのは気分がいいし、ジムのあとにすき家で食べる牛丼は格別に美味い!

 

 

やがて私は運動の習慣だけでなく、毎朝5時に起き、出社前に英語やフランス語の勉強をしたりと、有意義に時間を使うようにしました。

それが続いた期間はごく僅かでしたが、今思うと私にしては良くやったなと思います。

 

 

しかし、運動を始めてから約1年…。

 

ある日当然、やる気を失ったのです。

運動も、勉強も、早起きも、なにもかも。

 

          心を病んだ人のイラスト(男性)

 

常務に元気がないことを指摘されて以来、毎日の出社時にも「おはようございます!」と大きな声を心がけて挨拶をしてきたつもりです。

私的には「前よりは少し元気そうにできたかな」と自己評価していましたが、どれだけ挨拶しても煙たがられたり無視されたりで、まるで自分一人が無駄に空回りしている気がして、運動を始める前以上に活気が失われた気がしました。

 

 

勉強に関しても、もちろんそれは悪いことではないし、その努力の積み重ねが将来、何らかの形でリターンとなると信じています。

 

何らかの形といっても、そこには具体性のかけらもありません。

そもそも当時の私は、将来のことを具体的に思い描いていませんでした(今もそうかもしれないけど)。

 

そのうち、「この行いは一体何のためになるんだ?」とか、「何のために今頑張ってんだろう」とか、「俺はなぜこの世に生まれたんだ?」とか、もはや哲学的な問いまで始める始末…。

 

そんな答えの見えない問いはいつしか、「死にたい」というネガティブな思考に変わっていきました。

今までポジティブな感情が沸き立っていた分、その反動がネガティブな感情となってはね返ってきたのでしょうか。

魔法少女まどかマギカ」に登場するソウルジェムが、だんだんと黒ずんでいき魔女と化していくような思いで、ひとりでずっと病むばかり…。

 

会社の人間からちょっと認められなかったくらいのことで、自分がここまで闇堕ちするとは思わなんだ。本当に何故、ここまでのダークサイドに落ちたのだ、私?

 

過度な自己承認欲求が原因だったのでしょうか。

 

もともと自分は他人の評価など気にせず、自分らしく生きていこうというスタンスでした。とはいえ、こんな独善的な生き方が世の中で通用するはずがないのは百も承知。

会社で長く続けていくためには明るいイメージを持つのが不可欠だし。

 

そのために続けた努力が、いつしか他人の目を気にするばかりの自己承認依存の行動となっていた…。

           愛想笑いのイラスト

去年の自分を振り返って考察してみると、こんな感じになるのでしょうか。

だとしたら私がここまで堕ちたのも納得かもしれません。

 

こんなネガティブな状態は、今現在もなお続いております。

夜型人間なのか、夜の静まり返った時間帯なら比較的まともですが、昼間だと基本的に気分が晴れないのです。

 

1年経っても良くならないのはさすがに良くないと思い、長期の休暇を取っているこのタイミングでジムに再び向かうことを決めた私でした。

もう今の会社とはおさらばするし、余計な自己承認も不要。

 

これからは他人の目など気にせず、己の心身のためだけに鍛錬することを誓います!

とまぁ、今後の自分を鼓舞する意味も籠めたおはなしでした。

 

どこまでいけるかは分かりませんが、マイペースに無理なく続けていこうと思います。

 

Dienst existiert nicht (サービスなど無い)

私はこの日本で生まれ育って32年間、ずっと窮屈な思いをしてきました。集団の中に混ざろうとしても楽しめず、仕事においても人の数だけ気を配らないといけない。

自分の人生を楽しみたくても、存分に楽しめない。

 

これは私に限らず、多くの日本人が思い悩んでいるのではないでしょうか。

私を含め、そんな悩みを抱える人たちが、生きるための良いヒントを得られるようにしたいですね。

 

今回は、書店でたまたま目に止まった熊谷 轍さんの

「ドイツ人はなぜ、年290万円でも生活が「豊か」なのか」

についてお話ししようと思います。

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海外移住の夢もありますし、他国の生活スタイルについても理解しておきたいですからね。

 

2016年の各国市民の生活満足度調査によると、ドイツの生活満足度(最高10)は7.0日本5.9だそうです。ちなみに最高がノルウェー10.0

 

ドイツ人が満足できる秘訣は、「お金では測れない価値」を日本人よりも重視しているところにあります。必要以上に物を買ったりもせず、生活は全体的にみて質素。平均可処分所得も290万円と低め。

 

それでもドイル人は豊かなのです。

 

やはり物質的な豊かさ心の豊かさは反比例の関係にあるのですかね。

 

また、ドイツ人は個人主義の強い人種でもあるのです。

日本人のようなオモテナシの文化がなく、店内においてもお客さんと店員は対等な関係であるとのこと。

それ故、店員が客席にコースターを渡す際には、向かい側の席にコースターを手裏剣のように投げたり、また食事を終えた客に対して「ちょっとその皿取ってよ」と平気で言うそうです。

 

ドイツ人がストレスを抱えないのは、余計な気配りをしないからなのですね。

 

私もこれまでに話してきたように、周囲と調和したり他人に気配るのが出来ないタイプで、間違いなく個人主義な人間だと自負しています。

 

余計な気遣いをせず、我が道を行きたいと強く思う私ですが、他人から気を遣われ、親切にしてもらうのはやはり嬉しいものです。

これまでの人生を振り返ってみると、心の奥底では「これだけ親切にしてもらっても不思議じゃないだろう」とか「これくらいしてもらって当然だ」という前提の考えで動いてきた気がします。このオモテナシの国、日本でずっと生きてきた故に染み着いたものなのでしょう。

 

他人には大して手を差し伸べないくせに、他人には親切さを求める。

いまさらですが本当に身勝手な性格ですね、私…。

 

ドイツに限らず、海外で自分が人々と上手くかかわっていくためには、最初から期待しないことが重要なのかもしれません。期待をすれば、裏切られた時のショックが大きくなって、結局自分が損するのだから。

 

日本人は過度に気配りするし、「ストレスたまるくらいなら、余計な気遣いなんてやめっちまえよ」と思ってきた私ですが、いざ自分が個人主義の人ばかりの環境に身を置けば、そのうち日本のオモテナシの文化を恋しく思う日が来るのでしょうか(笑)

 

異国の文化に慣れるため、自分の悪い性格を直すため。

そのためにも、ドイツに限らず海外における人々の生き方について、もっと学んでいきたいと思いました。

 

 

 

 

 

 

 

古武術と文章

今回は、堀井憲一郎さんの「いますぐ書け、の文章法」を読みましたので、紹介していこうと思います。

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この本は元々、自分がいつかフリーランスとしてライティングを行うための文章力をつけたいと思って購読したのですが、それ以外にも応用できそうな気がします。

 

実をいうと私は趣味で小説も書いておりまして、この本はそのヒントにもなりそうなのです。

 

文章を書くという行為は古武術と類似しているそうです。

人が殴る蹴るなどの動作をする場合、まず手足を後ろに引かないと十分な威力を発揮することが出来ません。しかし、古武術においては身体を捻ったり、自身の身体に余計な負荷をかける必要がないのです。

動き出すための準備が一切いらない。

これは文章を書く際も同じで、話の流れやプロットを構想せずに、文を思いついたら即書き出してしまうのがいいのです。

これはたしかに分かる気がします。

私もこのブログを立ち上げた当初、これからたくさんの記事を書いてみんなに見てもらうんだと思いつつも、何を書こうかネタがなかなか降りてこなくて困ったものです。

それでもパソコンの前のキーボードに手を添え、「これだけなら書けそうだから、一応書いとくか」と思って書いてみると、不思議なことに書こうとしていた以上の文量が書けていたという経験は私にもありました。

 

以前の記事でも少し書きましたが、将来フリーランスになる為に、その下準備を今の本業と並行して進めておくべきだったことを思い出しました。

準備のためには十分な空き時間を確保しないといけないというのは思い込みで、無理のない範囲でスキマ時間をつくらなかったのは反省すべき点です。

 

人には誰にでも目標や夢があると思いますが、多くの場合は目の前の仕事に追われて余裕がないのが当たり前。夢実現のための努力や準備というのは、余裕のない環境で行うのが大前提なのかもしれませんね。

 

私はいま長期休暇で十分な時間があり余っています。

だから、この期間を通して良い習慣を作り上げ、転職して忙しくなったあとでも努力を厭わないくらいのメンタルと自主性を確保したいです。

 

 

文章術というよりも、どんな状況でも何かを続けることの大切さを再認識させてくれる本でしたね。